高円寺日記

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『グリッドマンユニバース』 虚構を紡ぐこと、現実を生きること

映画館で鑑賞し損ねていたグリッドマンユニバースがprimevideoで配信という事で見ました。ネタバレを含んだ感想です。

グリッドマンがアレクシス・ケリブを倒してから半年後。響裕太は宝多六花に数か月後開催される学園祭にて告白することを内海将に宣言する。そんな平和なツツジ台に再び怪獣が現れ、響裕太は初めて自らの意志でアクセスフラッシュしてグリッドマンに変身。そこにダイナレックスも現れ見事なコンビネーションで撃破。さらに新世紀中学生やダイナゼノンシリーズの面々なども続々と現れ、多次元宇宙が重なり合い、ビッグクランチが起ころうとしているらしい等の情報も現れ、はてさて響裕太は無事六花に告白できるのか!!

というのが本作のあらすじ。作中の言葉を借りると『奇抜な物語だね。』といったところか。僕自身が本作におけるSF的仕掛けについてはしっかりと理解できていないので、あらすじを説明するのが非常に困難なのだが、僕は別にこの物語をみて語ることにロジックを理解する必要はないと思っている。この物語はそういったものを超越したところにゴールを置いているからだ。

創作論としてみるグリッドマンユニバース

グリッドマンユニバースは虚構を紡ぐことに関する物語。ある種の創作論と言っても構わないだろう。まずはグリッドマン自体が持っているメタ構造について話していこうと思う。

そもそも主人公たちが住むツツジ台という土地は新条アカネ(神様)が作った世界である。新条アカネ自身はその世界には存在しておらず、世界の外側、現実(リアル)に存在する人間である。少女一人によって作られた世界だからこそ、ツツジ台は狭く、どこか書割のようで生活臭がせず、モブの匂いが一切しない戦闘シーンとなる*1

ただ普通の創作と違うのは、新条アカネが直接かかわらなくなっても主人公たちにより物語は紡がれ続けていたことだ。創作物は作者の手を離れ、消費者の間で育っていくことの隠喩ともとれる。

本作においても作品が虚構であるという事に関して冷めた視線をつねに送り続けており、一つは開始早々に挟まる『この作品は実在の人物・団体とは一切関係はありません』という注意書き、そして作中六花や将が文化祭の出し物としてグリッドマンを題材にした劇の脚本を書くというエピソードである。

とくに劇中劇の脚本は重要で、六花たちが書いた実際に経験したグリッドマンの物語を同級生からは【リアリティがない】ことを理由に何度も突き返されている。グリッドマンの物語は荒唐無稽な嘘っぱちで僕らもそれを自覚しているよ。と登場人物の口を借りて言わせているのだ。

そこで、これは虚構だから意味がないと突き放して物語は終わらない。まずは理屈を捏ねる。この理屈捏ねがグリッドマンユニバースのSF設定の部分だ。

これはある種、虚構の物語にもリアリティがあるんだとこねこねと理屈っぽく話しているに過ぎない。*22代目やアンチくんによって語られるこの物語のSF的な仕掛けは規模がとてもデカいことだけはわかるが、難解で退屈だ。むしろわざとロジックの説明を難解にしているようにすら感じる。

ロジックの説明を十分に時間をかけたのにもかかわらず、この物語はロジックを用いた解決ではなく、裕太という主人公の「告白をする」=「この物語語り続ける」という思いの強さで解決をはかる。物語を語るうえで必要なのは、リアリティ、現実へのフィードバック、役に立つ立たないなどという尺度ではなく、虚構を愛し語り続けようという意志なのだという事を高らかに歌って見せる*3

そこからは気持ちよさのつるべ打ちだ。前作敵キャラとの共闘、トリガーといえばな宇宙描写、新形態に新必殺技、そして歴代メインテーマが流れ続ける気持ちよすぎる戦闘シーン。とどめの一撃なんてまるで天元突破グレンラガンのラストを彷彿とさせる。ファンが求めてたのはこれだよっていうでをおなかを一杯にしてくれる。なぜか涙が流れてくる。

確かに物語を紡ぐことには一定の正しさを求められるかもしれない。しかし虚構であること、役に立たないからこそ夢中になり救いがあるのだ。

*1:トリガーはモブに厳しいアニメを良く作るが、存在しないという点で最もモブに厳しいアニメかもしれない

*2:理解をすればグリッドマンユニバースへの見識は深まるであろうがそれは重要ではない

*3:プロメアでも難しい説明の後デウスエクスマキナが出てきて観客を気持ちよくして帰っていった